当時、私はエスカレーターで大学まで行ける学校の生徒だった。
父は、仕事は自営の資格商売をしていて、趣味人だということは知っていた。
収入は結構あったようだ。
子供の頃、不自由をした記憶はない。
朝早くに出勤する父は、夜は早めに帰宅し、夕食は必ず私と母と3人で摂っていた。
それは、母との約束だったらしい。
親子の団欒と言えば夕食だけで、父は土日もろくに家にいることはなく、家にいる時は書斎に篭ってなにやらしていた。
その筋では有名なマニアというか、市井の研究者だったらしい。
時々、父の友人という人達が訪れて酒盛りをしていた。
よく、私と母に手土産と言って、珍しい菓子や珍味をくれたのも覚えている。
そんな父が事故死したのは、私が高校の時だった。
突然のことで、三七日くらいまでは、母も私も茫然としていた。
それから家の中を整理していた母が、ある日、私に真面目に切り出した。
母はそれまで、毎月決まった生活費を父から受け取り家庭を切り盛りし、収支は父任せだったこと。
学費等大きな出費はその都度言えばすぐに父が用意したこと。
父が死んで、調べてみたら、貯金も保険もろくになかったこと。
「父さんは、聞いても、ちゃんとしてるから心配するなって言うだけでね…」
生活費からのへそくりと、これから母が働きに出ることで、私の高校卒業までは心配ないが、このままエスカレーターで大学に行かせるのは難しい。
奨学金を取るか、国公立を受験する心構えをして欲しい。
今の家は広すぎて贅沢なので、売って小さなマンションに越すつもりなので、引っ越し準備もするように、と。
それから、連日、部屋の整理をした。自分の分が終わり、父の書斎を母と二人で片付けた。
古本をビニール紐で縛り、がらくたを段ボールに詰め。
業者にまとめて引き取らせると母は言っていた。
七七日に、父の友人で以前に何度か来たことのある人たち7、8人が来た。
父の仏前に線香を供える為に奥の部屋に来て、紐で縛られた本を見て、
「なんてことを!」と、その人は叫んだ。
お茶の用意をしていた母を引きずるように連れてきて、この本をどうするつもりかと詰問した。
止めようとしたが、その人の連れに押さえられた。
そのあたりの記憶は曖昧だ。まさに修羅場。
母さんを放せと叫ぶ自分は誰かに宥められながら茶の間に連れて行かれた。
奥の間からは
「故人の意思ですから」という声や、
「あんた、あれがどれほど貴重かわかってんのか」という怒鳴り声、
「火事場泥棒みたいなことやめて下さい!」
という母の叫ぶ声を覚えている。
しばらくして、母と、よく来ていた父の友人の二人が茶の間に来た。
父の友人の連れが、父の書斎から本やがらくたを運び出していた。
止めようとしたら、母に袖を引かれ止められた。
「父さんがね、あの人達に書斎のものを譲るって遺言書いてたの。研究が何より大事だったあの人らしい… 私達に遺言残さず、あの人達に書いてたんだって」
父の友人が、
「わかって下さい…奥さんとお子さんの為なんです。ゆっくりお話して、引き取りは後日のつもりでしたが、あの様子見ては…古紙回収なんかに出されては手遅れなんで…」
と言って頭を下げていた。
それから数ヶ月…