どこでもドアが欲しかった

超ド田舎のクソ膿家で空気夫とクソウトメと同居。衝動的に命からがら逃げ出した…

time 2016/11/30

超ド田舎のクソ膿家で空気夫とクソウトメと同居。衝動的に命からがら逃げ出した…

電車どころかバスも一日一本しかない超ド田舎のクソ膿家に空気夫とウトメと同居して六年。

朝は四時半にトメの掃除機(私が寝ている部屋の障子のへりにゴンゴン音を立てて起こす)で起床。
身支度などする間もなく田畑のチェックと野菜の収穫。
何をもいできても文句を言われるのは二年目に慣れた。

形が悪く虫だらけの野菜と格闘して朝食の準備、ウトと二度寝のトメと夫を起こす。
食べている間にチェックした箇所の報告をして(当たり前のように返事はない)息子らを起こしてお世話。

ウトメと夫が出ていってから息子らと朝食。
二層式の古い洗濯機を回しながらセカセカと動く。
息子ひとりにつき卵一個と決められ、私はウトメたちが残したものを舐めるように、こそぎとってご飯と一緒に流し込む。
みそ汁の残り、トメ製漬け物の切れ端(皿に盛ると文句を言われるので端っこはよけてある)、おすそわけの梅干しなど。

庭とは呼べない敷地で息子らが遊んでいる間に掃除、洗濯、朝食の後かたづけ、昼の弁当の用意。
塩むすび、うめぼし、たまごやき、お中元お歳暮の時期は焼いたハムなどをつけるが当然わたしには当たらない。
ハムやかたまり肉は誰かの分に端っこが入っていないと食べたのがバレて文句を言われるから、欲しくもない。

田畑まではウトメが軽トラ、夫が車に乗っていくので、私は歩いて三人分のお茶を弁当を持ち、2~3キロの距離を歩く。

妊娠中も、赤ん坊の頃でも、熱があっても、腰が痛くても、おんぶひもと抱っこの時期でも。
どこにいるのか知らされないし私は携帯を持っていないので、
近いところから探して回る。
軽トラの運転席、助手席、車の運転席にそれぞれ弁当とお茶を置いて、声をかけて(無視されて)家へ戻る。
息子らは足腰が強い子どもに育っていると思うし、最近は楽しんで遊びながらでも歩いてくれるので楽になってきた。

戻ると昼になるのでそうめんやおにぎりなど、簡単なものを作って食べ、息子らの昼寝をさせる。
その間に敷地内を全て掃除、ぞうきんかけ、夕食の準備をする。
戻ってきて席についたらすぐ食べられる状態にするために。

食材が限られているので煮物、おひたし、卵料理などがほとんど。
勝手に買い物することはまず無理。
お金は落ちている小銭を集めたものしか隠し持っていないし、通帳カード類は全てトメの金庫の中。
そもそも車がないし親しい人もいないので身動き自体がとれない。
パソコンも携帯もない。

ウトメたちが帰宅する音が聞こえるとすぐに食卓の準備。
食べはじめると同時に風呂を沸かす。
想像できるだろうけどもちろん私と息子らは最後。
まあどうせ掃除しなければならないので最後で構わない。

シャワーはもともとついていないので、わかした湯だけで全て済ませる。
これも一年で慣れた。
テレビはウトメがいるとき以外はつけてはいけない。
まあ居る時も傍には寄らないが。
泥と汗まみれの服を下洗いして漬けておき、翌日は四時半に起きるので九時半には床につく。

盆暮れ正月来客時は多少の変化はあるが、このような生活を六年も送って頭がおかしかったと自分でも思う。
ウトメと夫は、農業だけは一生懸命だった。
(そこだけは今でも尊敬している)

夫婦の会話はほとんどなく、次男が生まれてからは睡眠に支障がでるとの理由で寝室は別。
新婚の頃はあれこれと気を遣ってくれたが、一年もすると、私がウトメに文句や嫌味、罵倒されていても聞こえないふりをするようになった。

どんなに理不尽なことでも、気が強いトメに怒鳴られると、萎縮するのか諦めるのか定かではないが、とにかくそれ以上関わらないような態度だった。
まあ、私もその点では同じようなものなので責めることはできないが。

ここへ来てからというもの、電車を乗り継ぎ数時間の距離にある
実家へ帰ることができたのは二回だけ。

その二回ですら正月から頭を下げて
「お願いいたします、三泊だけで良いので行かせて下さい」と言い続け
さらに息子が「○○のおばあちゃんち行きたい!なんで?なんでダメ?」
と涙ながらに食い下がりようやく許可がおりるといった感じ。
本当に「許可」という言葉がぴったりだった。

この夏は、自分でもなぜなのかはわからないが
どうしても実家に帰りたかった。
去年帰ったので今年は無理だろうなと諦めていたのに、
なぜか「帰りたい!」と毎晩のように思った。

お盆も過ぎたある日の夕食後、夫だけに
「来年から長男も小学校だし、この夏に帰りたいんだけど」
と言うと「ばあさんたちに聞きなよ」と否定はしなかった。

エプロンを外してウトメのところへ行き
「去年も帰らせていただいて何なのですが、来週あたり実家の方へ行きたいと思って…」
と頼むと、ウトメが同時に眉間に皺を寄せた。
ああ、やっぱりな…と思ったら
「は、好きにすればええが」
と思いもよらなかった答えが返ってきた。
私のことがどうでもいいのはわかっているので裏など読まず、飛び上がって喜びそうになったがこらえ、
「ありがとうございます」
と頭を下げて台所へ戻った。

翌日、みなが出ていったのを確認して弁当を準備したあと、衝動的にドタドタと荷物をまとめた。
もともと持ち物は少なく、私と息子らの三人分の荷物が、大きめのトートバッグひとつにおさまった。
そして念には念を入れて洗面所にバッグを置き、その上から洗濯物をかぶせた。
もしものときに言い訳がきくように。

お茶と弁当を届け、家に戻るスピードの速いことといったらなかった。
長男は走り、次男はかついで早歩きした。
湿ってしまったトートバッグを肩にかけ、
下駄箱の上の牛乳代と新聞代をグシャッとつかんで巾着袋に入れた。

そして歩いて、歩いて、歩いて、歩き続け、
高速バスの停留所が見える頃には空が赤く染まってきた。
昼寝もせずに移動したものだから兄弟そろってグズり、
腕の感覚がなくなるほど抱いてでも止まらなかった。

やがて次男が背中で寝ると、長男が「ぼく歩くよ」
と言ってくれて手をつないだ。

腰を曲げながら歩くのは本当にしんどかったが、
あふれ出す感情で顔をぐしゃぐしゃにして長男を褒め、歩いた。

バス停でバスを待つ間、気が気ではなかった。
今頃あいつらは帰宅しただろうか?そして気付いただろうか?
夕食の用意も、お風呂も、洗濯物も取り込んでいないのに気付いただろうか?
「そういえば今日帰るって言ってたっけ」と思われたらまだいいが、
「逃げた?」「事故?」と思われたら?

死ぬ気で歩いてきたこの三時間が、
車一台のスピードでパァになってしまうんじゃないか?
次男の泣き声でここが見つかったらどうしようという気持ちで、
必死で背中を揺らしているとき待ちわびていたバスがやってきた。

今にも沈みそうな夕日に照らされて赤く、そして金色に輝いて見えた。
そんな必要もないのに大きく手を振った。

席について真っ先にしたことは、後ろを振り返り、誰も見ていなかったかどうかの確認だった。
自分が見る限り、バス停の周りには誰もおらず、乗客も運転手も全く知らない顔だった。

駅に着き、とりあえず新幹線が停まる駅までの切符を買った。
実家に電話するより何より、早く、早くと焦っていた。

バスの中でいくらか寝たからか、電車内での息子らは
落ち着いていてくれて助かった。

「ばあちゃんち?」
「そうや」
「ほんとう? やった」
「やった」
そんな会話を何度も繰り返した。

大きな駅について巾着袋を開くと、残りは十円玉が数枚だった。
実家に電話すると…

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