どこでもドアが欲しかった

高校の時、車にはねられた。その時は何でもなかったが翌日体が動かなかった。しかし…

time 2016/12/09

高校の時、車にはねられた。その時は何でもなかったが翌日体が動かなかった。しかし…

母に頼みパソコンを布団の隣に持ってきてもらい、藁にもすがる思いでmixiに接続、そこのコミュニティで助けを求めた。
本当に沢山の人に助言を貰い助けて貰った。
最初、その町を管轄する警察署は話が通じなかったので、県警に話を通すように助言された。
しかしそこでも話が行き詰まり、監査室への相談を提案された。
そこからは早かった。
担当刑事から焦りの電話が鳴り止まなかった。
最初は誤解だなんだと言い訳ばかりだったが、その言葉もそのまま伝えたら項垂れた警察官が直接謝罪にきた。
結局切り替えまで一月程要した。
その間学校のほうも対応がとれず、出席日数の問題で成績はギリギリで推薦での大学予定が取り消された。
センター試験までに座った状態を数時間保てるまで体が回復せず、大学もどこにも行けなかった。

こちらに過失がない事故だったので先生たちの温情から、足りない出席日数をレポートで補い高校は卒業したが、
予備校に行く余裕もなくそんな体力もないまま一年ろくな生活ができずにリハビリで終わった。
リハビリは二年間続けたが、そこで示談が成立した。
症状固定で完治はせず、酷かった左手に麻痺と神経痛が残った。
また左膝の半月板も骨折していたが気づかず、治療出来ない間に変にひっついてしまった為に長時間の立っていることも困難になった。

示談成立後は資格だけでも取ろうと専門学校に通ったが、二年間で衰えた体力と歩行難、体調が悪くなると出てくる神経痛から、あまり宜しくは無かった

その後職を探すも、事故後の二年間の空白を疑われ正社員の道は無く、フリーターでもやはり空白の二年間を問われ落とされる事が多かった

最近やっとパートながら事務仕事に有りつけて、体に問題を抱えている私でも親の脛に囓らす食い扶持を稼げるようになった。
あたり屋だと罵られ引っ越しまで余儀なくされた母親の負担をやっと軽くできる。
同級生は続々結婚もし出産もし、中には負け組と囁く人もいたが、やっと社会人としての一歩が踏み出せたことで最大の修羅場から抜け出せたと思う。

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